【No.379】
大学教育学会2011年度課題研究集会

○●○大学教育学会2011年度課題研究集会(11月26日・27日、山形市中央公民館)の企画に携わって
-統一テーマ「大学教育の原点-授業・学生・教養」の意味-○●○
 本年6月、震災の影響を受けて開催が延期されていた大学教育学会理事会において、私は2011年度課題研究集会の企画委員長を委嘱された。開催校、山形大学の小田隆治委員(実行委員会委員長)のほか、目修三(八戸工業大学)、橋本勝(富山大学)、濱口哲(新潟大学)および山田礼子(同志社大学)の各委員と協議し、統一テーマを 「大学教育の原点-授業・学生・教養-」と決定した。その後、開催プログラムを紹介した9月の学会員向けニュースレター(学会ウェブページhttp://www.daigakukyoiku-gakkai.org/society/page-1)では、次のように趣旨を解説した。
 「東日本大震災で被災された学会員および大学関係者の皆様に心よりお見舞い申し上げますとともに、1日も早い復興をお祈り申し上げます。
この間、災害情報を22 言語に翻訳してサイトから発信し続けた東京外大の院生たち、宮城県内でがれき撤去などの作業を毎週土曜、教職員とともに行ってきた山形大と東北芸工大の学生たちなど、「何かやりたい」という想いからそれぞれにできることをボランティアとして行う学生たちの姿が報道されてきました。
被災地から戻った学生たちは被災者に寄り添った体験を語り始めています。「目の当たりにした悲惨な光景が忘れられない。今後も復興活動に取り組みたい」「大切な仲間ができた。これからも参加したい」「微力だが無力ではない自分を実感した」「人力での泥かき作業の困難さを痛感した。復旧には時間がかかる。それぞれの立場で長期的な支援を考え実行していくことが大切だ」
自然との向き合い方や社会の在り方について思考を深めた学生たちも多いはずです。自らの視点で震災を語り継ぐことになります。学生の自主的な活動を支えた大学等に敬意を表し、同時に、この時を、全ての大学関係者が、こうした体験から学びつつある学生たちに何を教えるべきかという、まさに教育の原点について振り返る契機としたいと考えます。
おりしも、本年4月、学校教育法改正により義務付けられた項目による教育情報公表が始まりました。一般教育・専門教育の区分と一般教育内の科目区分が廃止された大学設置基準「大綱化」からちょうど20 年。学士課程教育を自由に編成できるようになった各大学が、FD・SDの成果を含め、その教育内実を世に問うべき時代になったわけです。
一方、カリキュラムポリシー策定や厳格な成績評価の検討など、個々の対応策が、大きな問題の部分的な切り取りに終始する可能性も指摘されます。制度上の変更は本来、学生に対する教育の質的向上につながるべきものです。教育の中心は授業であり、大学教育の根幹は教養教育(それをどのように定義するにしろ)にあることは明らかです。震災の前には見えていなかった日本社会の危うさが、はっきりとしてきました。新しい時代の知恵を提供すべき大学は、今、大きな転換点にさしかかっています。教育内容が、学生たちにとってはもちろんのこと、社会にとって本当に意義あるものか、問われています。
1979 年の「一般教育学会」発足以来、本学会は、継続的テーマとして特定の課題を設定し研究を行っています。今年度の課題研究集会では基調講演に引き続き、3つのシンポジウムを開催します。学校教育法が規定する「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させる」という大学の現在と未来を、授業・
学生・教養をキーワードに描きだすことを試みます。
開催校山形大学を中心とした「地域ネットワークFD“樹氷”」の実績をもとに、北海道から関東まで多くの大学等が参加する「FDネットワーク“つばさ”」が展開されており、被災地からも多くの大学人が集うことになります。活発な討論により、さらなる教育改善を目指す明確な視座を提示することができれば幸いです。」
この統一テーマのもと、プログラムは第1日【基調講演】「東日本大震災と大学」講師:山本陽史・山形大学教授、【開催校企画シンポジウム】テーマ:「学生主体型授業の可能性」、第2日【課題研究にもとづくシンポジウムⅠ】テーマ:「実践的な教養教育を求めて」、【課題研究にもとづくシンポジウムⅡ】テーマ:「学生支援で学生はどのように変容しうるのか―ボランティア活動支援から―」となっている。このうち、開催校シンポジウムの趣旨は次のとおりである。
「2011.3.11 東日本大震災は、そのカタストロフィ的な悲劇、と同時に、戦後から日本に溜まってきた歪を一挙に噴出した感がある。たしかに、少子高齢化・人口減少・経済の停滞・政治の混迷・グローバリズム・高度情報化社会・エネルギー問題・地球環境問題などは大震災前から顕在化していたが、それらの問題群は我々の脳と口に留まり、生理にまで届いていなかったようである。巨大津波によって破壊された風景や、原発事故によって虚無化された光景が眼底に焼きつき、震撼とした。眼前には茫漠とした不安な未来が広がっている。
人類は、これまで絶望的とも言える苦難に幾度も遭遇してきたが、その都度、必死に生き、生命をつなぎ、文化を継承し、社会を発展させてきた。いま我々は不安を抱きつつも、先人がしたように、あがき、苦しみながら、つぎにつなげていく。人間は、いついかなる時も、より良い生と社会の発展を希求している。
大学は、18 歳人口の半数以上が入学する時代となり、やがては市民の半数以上を大卒者が占めるようになる。大卒者は専門職業人として社会に貢献しつつも、同時に市民としての一般的な役割を担うことになる。職業人がその専門性において社会の部分性を担うとするならば、市民の重要性はその全体性にあるだろう。若者たちはどういう社会を求め、それをどのように建設していくのか。主体的に自己・人間・社会・国家・自然・地球を問い、様々な人たちとコミュニケートし、社会にコミットする自立した市民の育成が求められる。こうした市民の育成が大学教育、特に教養教育の現代的な意義である。市民の基盤となる主体性を育成するためには、大学の授業において様々な新しい試みがあってしかるべきであり、実際、全国の大学で多様な試みが行われている。我々はこうした目標に向かってチャレンジしている授業を学生主体型授業と呼んでいる。この時代にあって、学生主体型授業の可能性について考えてみようと思う。」
5年前、2006年度課題研究集会を本学で開催する際、その時も企画委員会委員長を担当した私は、「晩秋の金沢、平年の初雪はこの頃です。城内キャンパスを含む市内中心部からの移転を終えた角間キャンパスは、郊外の里山にあります。暖かくしておいでください」と趣旨を結んだ。冬を迎えようとしている東北で、400名近いと予想される参加者により、学生のための大学教育はいかにあるべきか、熱い議論が展開される。この年を締めくくるのに相応しい、将来を見据えた実りある課題研究集会となると期待している。(文責:教育支援システム研究部門 青野 透)