【No.534】
障害学生への合理的配慮を考える-⑫配慮事例集積と大学教育の目的からの吟味-

○●○障害学生への合理的配慮を考える-⑫配慮事例集積と大学教育の目的からの吟味-○●○

 2月8日、東京で「第2回発達障害学生への合理的配慮に関する研究会」(主催:大学教育学会「発達障害学生への学生支援・大学教育の役割」課題研究委員会)が開催された。昨年、当センター主催により金沢で開催された第1回研究会では、障害者権利条約、障害者差別解消法の内容確認にもとづき、「発達障害学生に対する合理的配慮とはいったい何を指し、どこまで行うことが必要なのか、大学教育との関わりはどのようなものとなるのか」等の課題が存在することを確認した。  

今回の研究会では、先行研究および国内外の具体的な支援事例の報告に基づく議論を行い、学内連携を中心とした発達障害学生支援のシステムに関する検討も試みた。

報告は「発達障害と受療支援・修学支援・キャリア支援-坂本憲治「学生相談における発達障害者支援の研究動向と課題」『学生相談研究』35巻2号(2014年)を参考に-」(青野)、「発達障害と就職支援・啓発活動・アセスメント-須田奈都実・高橋知音・上村惠津子・森光晃子「大学における発達障害学生支援の現状と課題」『心理臨床学研究』29巻5号(2011年)を参考に-」(枝廣 和憲:岡山大学)、「オーストラリアの大学における支援事例―Donna Couzens, Shiralee Poed, Mika Kataoka, Alicia Brandon, Judy Hartley & Deb Keen,(2015) ,“Support for Students with Hidden Disabilities in Universities: A Case Study”, International Journal of Disability, Development and Education 62(1)」(片岡美華:鹿児島大学)、そして参加者の所属大学における発達障害学生支援・配慮事例に関する報告であった。

大学内連携の重要さを再確認したのは全ての参加者に共通であった。筆者がその中で、これからの課題と考えたのは、従来行われてきた、合理的かどうかの判断に基づかない配慮の位置づけである。例えば、学生相談担当者が、一対一の面談だけでの支援を続けるべきではない、学生本人の了解を得た上で、他の関係者に報告・連絡・相談して初めて当該学生の支援となるとの判断をし、その結果、新たな支援方策に取り組む場合がある。そのさい、学生相談担当者単独での決定ではなく、複数の関係者との合議の結果としてある対応策がとられたというだけで、それが合理的であったと評価することができるかどうか。もっと多くの関係者間で検討すれば、他の方策が選択肢として浮かび上がった可能性もある。どこまで時間をかけて、衆知を集めても、合理的かどうかに迷うこともあるだろう。後に、公にすれば不合理あるいは非合理と評価される可能性すらある。けれども、残念ながら、私たちには、他大学におけるそうした事例についての情報が、あまりにも少なすぎる。

 全国の多くの高等教育機関で同様の問題が起きているはずである。その対処がどうであったかについて情報共有することは、配慮の必要性と合理性を考えるにあたって不可欠である。日本学生支援機構が昨年7月末を期限に全国高等教育機関に対して、障害学生支援の具体的事例についての回答を求めた。その結果の公表を多くの高等教育機関の支援担当者が待ち望んでいる。障害者差別解消法施行まであと一年ちょっとである。必要な情報共有、さらには検証につながる研究を、大学内、大学間で行うことが、今求められていることを強調しておきたい。

 さて、この原稿を、客員教授として一週間研究室を与えられている名古屋大学で書いている。高等教育研究センター主催の客員教授セミナーも担当する。かつて、同センター主催の「第82回招聘セミナー」(2009年7月22日)で、「なぜ地域の大学間の連携が必要なのか―1人の難聴学生との出会いから―」と題して報告させていただいた。聴覚障害学生支援は、一大学だけでは不可能であることを、実体験に基づいて報告した。発達障害学生への支援や配慮も、同様であることを、今更ながら痛感している。そこで今回の客員教授セミナーは、大学教育の目的を障害学生支援の見地から捉え直すもので、タイトルは「教育は学生のためにある-障害学生支援から始まる大学教育改革-」である。大学教育そのものの本質に関わる問題である、さらには障害者の人権保障という国際的な流れの中に位置づけられるという認識こそが、具体的な事例をあまり知らない教職員にとっても、障害学生への合理的配慮の問題への基本的姿勢を作るものとなると考えるからである。

 客員教授セミナーの報告概要は、「これからの「大学」の話をしよう。2016年4月施行の障害者差別解消法が大学教育にもたらす影響は大きい。障害者がいることを前提としないキャンパス、教室、および授業設計は全て見直す必要がある。英語による授業やアクティブ・ラーニングの実施にあたっても、多様な障害のある学生の平等参加を配慮しなければならない。教育は学生のためにどのように変わろうとしているのか、教育の本質に関わる議論を始めよう」と、大胆なものである。

 これからの大学教育は、アクティブ・ラーニングを抜きには語れない。そして、これからの学生について語るには、多様な障害学生がいること、そうした学生への合理的配慮について言及しなければならない。ということで、このシンプルなタイトルは、「アクティブ・ラーニングは障害学生のためにこそある」との、私の最も言いたいことへと発展することになる。

 そんなことはありえない、と思われる方が多いかもしれない。逆に、アクティブ・ラーニングは、障害学生がいれば実施しにくいのではないか、控えた方がいいのではないか、という考えの方もおられると思う。聴覚障害学生がいれば、障害学生が受信するためだけなく、聴覚障害学生による発言という発信のための情報保障をしなければならない。あるいは、発達障害学生(診断の有無を問わず)の中には、対人コミュニケーションに苦手意識を持つ学生がおり、ペア・ワークやグループ・ディスカッションに参加を強制するわけにもいかない。こうした難題を前に、すでに経験があって、すぐに対応することのできる大学は、たしかに少ないであろう。

 だが、教育者としての矜持がそれを許さないはずと、私は期待している。例えば、聴覚障害のある社会人から、自分たちが習ったろう学校では、口話を強制され、健聴者の言うことは正しい、疑ってはならない、健聴者を敬い、健聴者に従わねばならないと教え込まれた、といった経験を聴くと、自分たちは権利の主体者だという意識を一人一人の障害者が持ち、全ての人がお互いの多様性を尊重しあうことを目指す、障害者権利条約の思想からはあまりにも離れていると思う。大学入学までの教育でそういう認識を持つことができないのであれば、大学教育においてこそ可能な、クリティカル・シンキングやアクティブ・ラーニングによって、自らの頭で考え、それを発表し、議論しあう体験の場を障害学生に提供するのが、大学の使命ではないかと思う。障害学生の平等参加のための工夫は、こうした目的を達成するための手段開発でしかなく、教育内容、目的達成のための克服の過程でしかない。逃げてはならない。一人一人の障害学生に大学で学んでよかったと思ってもらえるために汗を流すこと、それが、これからの大学の教職員そして執行部の法的責任であり、また、本来の教育責任からも当然のことである。 (文責:教育支援システム研究部門 青野 透)